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寺社・御朱印、平将門公史跡めぐりの日々

「浩然の気」 吉田松陰

浩然の気(前半)/吉田松陰一日一言

至大至剛(しだいしごう)、直(ちょく)を以(もっ)て養(やしな)ひて害(がい)することなければ、則(すなわ)ち天地の聞(かん)に塞(ふさ)がる。
孟子本文

此(この)の一節最も詳(つまびら)かに読むべし。至大(しだ)とは浩然(こうぜん)の気の形状なり。「恩を推(お)せば、以て
四海を保(やす)んずるに足る」と云ふも、即(すなわ)ち此の気なり。此の気の蓋(おお)ふ所、四海の広き、万民の衆(おお)きと云えども及ばざる所なし。豈(あ)に大ならずや。然れども此の気を養はざる時は、一人に対しても忸怩(じくじ)として容(い)れざる如(ごと)し。況(いわん)や十数人に対するをや。況や千万人をや。蓋(けだ)し此の気養ひて是れを大(だい)にすれば、其の大(だい)極(きわま)りなし。餒(だい)して是れを小にすれば、其の小亦(また)極りなし。浩然は大の至れるものなり。至剛(しごう)とは浩然の気の模様なり。「富貴(ふき)も淫(いん)する能(あた)はず、貧賎(ひせん)も移(うつ)す能はず、威武(いぶ)も屈する能ず」と云ふ、即ち此の気なり。

【訳】
至大至剛、直を以て養ひて害することなければ、則ち天地の聞に塞がる(この上もなく大きく、この上もなく強く、しかも、正しいもの。立派に育てれば、天地の聞に充満する程になる。それが浩然の気であるという)。 孟子本文

この一節を最も詳細に読まねばならない。

「至大」とは、浩然の気の形、ありさまである。孟子が「恩を推せば、以て四海を保んずるに足る(人としての情け心を押し広めてさえゆけば、広い天下でも治めていくに十分であることいっているのも、つまり浩然の気のことである。この気が覆う広さは、天下がいかに広くても、人々の数がどれほど多くても、とうてい及ばないのである。
何と大きいことではないか。しかしながら、常日頃、我が身にこの気を養わないでいれば、たった一人の人間に対しても恥じ入ってたじろぎ、これを受け入れることができないのである。ましてや十数人に対しては、いうまでもない。また、千万人に対しては、なおさらのことである。確かに、この気を養って、大きくすれば、際限もなく大きくすることができる。ところが反対に、小さくさせてしまうと、際限もなく小さくなってしまう。「浩然の気」というものは、この気を最も大きくしたものである。「至剛」とは、浩然の気の模様、つまりありさまである。「富貴も淫する能はず、貧賎も移す能はず、威武も屈する能はず(財貨が多く位が高くても、その心を堕落させることができず、逆に、貧乏で身分が低くても、その心を変えさせることができない。威光や武力をもってしてもおびえさせることができないこという、それが、この気のことである。

 

浩然の気(後半)/吉田松陰一日一言



此(この)の気の凝(こ)る所、火にも焼けず水にも流れず。忠臣(ちゅうしん)義士(ぎし)の節操を立つる、頭は刎(は)ねられても、腰は斬られても、操(みさお)は遂(つい)に変(へん)ぜず。高官(こうかん)厚禄(こうろく)を与(あた)へても、美女淫声(いんせい)を陳(つら)ねても、節(せつ)は遂に換(か)へず。亦(また)剛(ごう)ならずや。
凡(およ)そ金鉄剛(きんてつごう)と云(い)へども烈火以て溶(と)かすべし。玉石堅(ぎょくせきけん)と雖(いえど)も鉄鑿(てつさく)以て砕(くだ)くべし。唯(た)だ此の気独(ひと)り然(しか)らず。天地に通じ古今を貫き、形骸の外(そと)に於(おい)て独り存するもの、剛の至(いた)りに非(あら)ずや。至大至剛は気の形状模様にして、直(ちょく)を以て養ひて害することなきは、即(すなわ)ち其の志を持して其の気を暴(そこな)ふ義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、我が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて片時も緩(ゆる)がせなくすることなり。学問の大禁忌(きんき)は作輟(さくてつ)なり。或(あるい)は作(な)し或は輟(や)むることありては遂(つい)に成就(じょうじゅ)することなし。故に片時も此の志を緩(ゆる)がせなくするを、其の志を持(じ)すと云ふ。

安政二年七月二十六日「講孟劉記」

【訳】
この気が凝り固まれば、その心は火にも焼けず、水にも流れない。忠義の臣や自分を捨てて、正義に殉ずる人がその節操を堅く守る様は、頭を例ねられ、腰を斬られでも、絶対にこれは変えないのである。
高い地位や俸給を与えても、また、その眼前に美女を並べ、その淫らな声色を聞かせても、節操は最後まで変えないのである。何と強く堅く、猛きことではないか。およそ金や鉄であっても、烈しく燃える火で溶かすことができる。玉石であっても、鉄の撃で砕くことができる。ただ、この浩然の気だけはそうではない。天地の果てまで満ち溢れ、昔から今までずっと一貫しており、形を超越して、ただ一つだけ存在するものである。何と至剛の極まりではないか。至大至剛は浩然の気の形とありさまであり、孟子の「直を以て養ひて害することなき(この気を正しい道を実践することによって養い育て、これを害することがない)」と、いうのは、その志をもちつづけて、その気を暴(そこな)うことがないということであって、これこそが、「浩然の気」を養う方法である。
その志をもっというのは、聖賢の正しい生き方を学ぼうとする志をもちつづけて、一瞬でも気を抜かず、いい加減にしないことである。
学問を進める上で絶対にしてはならないことは、やったりやらなかったりということである。ある時にはやり、ある時にはやらないということでは、結局、成し遂げるということはない。だから、つかの間もこの志をいい加減にしないことを、その志をもちつづける、というのである。

 

吉田松陰は、武教全書講録で、浩然の気についてこうも書き記している。

「浩然の気を養うは、平坦の気を養うより始まる」

 

 

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