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寺社・御朱印、平将門公史跡めぐりの日々

座禅問答記(曹洞宗・総持寺における老師との問答)

先日参加した曹洞宗大本山・総持寺で行われた「禅の一夜」にて、ご老師に参加者が質問できる時間がありました。
禅の一夜で知りあったHさんがその時の問答を録音されており、ご自身が出されている「参禅同友会」という会のメルマガ用にテープ起こしをして下さいました。
その場にいた私でも文章で読むと新たに感じるものがありましたので、転載したいと思います。
ちなみにHさんはとても気さくかつ真摯な方で、7年前から坐禅をはじめ、今では毎日40分の坐禅を組まれているという方です。

※総持寺衆堂の准胝観音。とても魅力的な観音様です。衆堂は一般参禅者に開放されている坐禅堂です。

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以下、Hさんメルマガ転載。
 
 『花和老師茶話会:15の問答』@曹洞宗大本山總持寺「禅の一夜」平成27年3月28日夜話
 
合掌 こんにちはHです。
お釈迦さまの対機説法を彷彿とさせるような、仏知見(仏の智慧)が開いたようなお話しで、非常に感銘を受けました。わたしたちの坐禅の参考になるところが多くあり、 示唆に富むものでした。以下、テープ起こししました。ご参考になれば幸いです。
 
Q 1.私ですね、半跏趺坐もできず、胡坐で坐っているのですが、それでも足が痛いのです。何かいい方法はありませんか?
 
A 1.実は畳の上に坐るというのは痛いんです。本来であれば、『坐禅用心記』の中には、坐褥(ザニク)厚い座蒲団を敷きなさいと書いてあるんですね。大きな座蒲団あるいはそれに類するものに坐蒲(ザフ)を使って坐ると、かなり足の痛さは緩和できますね。もしかして半跏趺坐が痛くなくできるようになるかもしれないですね。あと、やはり慣れですね。もし坐蒲がなければ、座蒲団を折り重ねても結構です。
 
Q 2.坐禅はじめてです。何も考えないでということなのですが、坐禅の境地って、どういう風な感じですか?
 
A 2.頭の中が空っぽになってしまうということは、われわれにとっても至難の技ですね。それを目指してはいますけれども、ただ頭の中にいろんな考えが、あのー、なんていうんですかね、だんだん遠くになってくるといいますか、こだわらない、それにそれをつかまない、浮かんできても無理しなくても放っておけるんですよ。そうすると、なんかこうーこころが安定して、それで心静かになってくるんですね。で、いい坐禅だと思っている内にもう時間がすんでしまうという。そういう状態を境地といえば境地なのかもしれませんが、曹洞宗では別にこういうことが悟りですよとかはいわないんです。臨済宗の場合は一つの自分の境地を提示して、和尚さんがそれは悟りの姿だと、印可証明するのですけれども、 印可証明を何百回も受けた人がいるというくらいなんで、それが悟りの境地とはいいがたいとは思うんですけれども。ただ、確かなことは、結局は自分でしかわからないということで、自分が心静かになって気持ちが前向きになってくるっていいましょうか、活力が出てくるというか、ま、それは禅の境地といえるものなのかもしれないですね。それはその人にしかわからない。ちなみに言うと、仏教で、そういう思いをもっているうちはまだまだだと言われるのは、欲と怒り、そして仏教について確信が持てない、信用しきれないという三つなんですよ。境地が進むのを妨げるといいましょうかね、悪いものとされているものです。だから、坐禅のときの境地の進んだ状態というのは、まず、欲がなくな る、もう一つは怒らない、何があっても怒る気持ちが起こらない、そして仏教に対して全幅の信頼をもてるという。仏教的な解釈でいうと、それが、悟りに近いづいた境地だといえると思います。今の三つは貪瞋痴(トンジンチ)という仏教の言葉ですけど、それを一つのバロメーターにすればいいんじゃないかなと思います。ま、一つのヒントですけど。ま、そういうのもあります。<
 
Q 3.坐禅している時、背筋を真っ直ぐにしようと思うと、どうしても肩に力が入ってしまって、力抜かなきゃいけないと思った時、一瞬は抜けるんですけど、また直ぐに肩に力が入ってしまうんです。何かいいやり方はありますでしょうか?
 
A 3.私ども衣を着てますよね、これをたくして膝の上に置くと、手がぐっと上に上がるんですよね。私の体型はちょっと体に比して腕が短いので、そのままの姿勢だとすごく肩に力が入ってしまうのです。で、これで工夫して、足の上に座蒲団を置いているようなものですから、ぐっとこう上がるので、すごく肩が楽になるんですよね。だから、これを参考にさせていただくと、足の上に何か置いた方がいいかもしれないです。もう一つ、法界定印をきっちりとやると肩に力が入りますよ、手の長い人は力が入らないのですけれども。入るなと思ったら、第二関節と第二関節が正式なんですが、少し緩めて第一関節と第一関節ぐらいにすると、楽になりますよ。ま、そういうことで工夫してみてください。
 
Q 4.初めて一泊参禅会に参加させていただきました。普段坐禅ではなく、寝る前に瞑想をしたりするのですが、難しくてですね、眠くなってしまうんです。瞑想してそのまま気づいたら朝になってしまうということがあります。眠くなった時の意識の補正の仕方を教えていただきたい。
 
A 4.人によって随分眠くなるタイプの人とそうでないタイプの人がいるみたいですけど。『坐禅用心記』に眠くなったら眉間に意識を動かしてみると書いてあります。それか、自分の呼吸を数えることですね。 123456578910,12345678910と数える数息観というのがあるのですけれども、それは眠気を遮るんですけれども。でも、眠っちゃいけない眠っちゃいけないとなると、坐禅が嫌いになってしまうので、・・・。あのー、眠りを誘うということは精神的に安定してるのだと思うんですよ。だから、余り長い時間坐らないで、もっと短い時間集中して、眠りが催す前に止めてしまうというか、それで続けてみる事の方がいいような感じがしますよね。
 
Q 5.こういう静か処で坐禅を組んで落ち着いて過ごすというのはなかなかできませんので、とてもリラックスした時間を過ごすことができて、感謝しております。
 
A 5.お寺というのは、心のふる里であるべきだなという考えでもあるので、いつ来ても自分のふる里に戻るという感覚で足しげく通っていただければと思います。今、ちょうど桜の花もきれいですので。
 
Q 6.呼吸を意識しながら生活するというのも新たな発見さでした。体が硬くて半跏趺坐が組めないのですが、組む努力はした方がいいのでしょうか、それとも無理しないで・・・
 
A 6.意識もそうなのですけれども、向上心といいますか、ちょっとずつでもよくなるというのは必要だと思うんです。自分らしく今の姿に合わせてというのが一番なんですけれども。でも、半歩前という、半歩前という意識ぐらいがちょうどいいのかもしれないですね。
 
Q 7.坐禅を続けているのですけれども、進歩がないなと思っています。でも、ひたすら坐禅してれば何かあるのかなということでやっているんです。坐禅の時間の長さは意識した方がいいのでしょうか?
 
A 7.あまり乗らないときはあまり長く坐ると苦痛になってしまうので、気持ちよく止められるぐらいの時間に。だから、40 分なら 40 分に決めることも一つの方法かもしれないですよね。その時間に自分の方を合わせてしまうと、段々それが楽になってくるんですけれども。でも、自分一人しかいないわけですよね。われわれは皆でやっているんで、自分だけ早く終わるということはできないので。で、それに合わせて坐禅が気持ちよくできるということが大事ですので、決して苦痛の行ではないですから、日によって時間を調整した方がいいと思います。
 
Q 8.坐禅には何度かお伺いしているのですけれども、あまりいい成果をあげられず、自分でも納得した状態にはなってないなと思っています。ちょっと難聴の気があるものですから、花和老師の言葉を殆ど聞き取れないので、どういうもんかなと首をかしげながらこう一生懸命顔を見ているんですけれども、まああのー、ここの場面に自分じゃなくて物になってしまわなければいけないんだ、という気持ちだけでここに坐っているような気が今しております。これが良いか悪いかは別として、ご老師のご意見をお聞きしたなと思っております。
 
A 8.「物」という言葉が出てきましたんで。中国禅を確立した慧能禅師がおられます。大変な禅僧で、巨星です、飛びぬけている人なんですね。その方に有名な言葉があって「無一物」。これはわれわれもよく耳にする言葉なのですけれども。私たちの本来の姿は「無一物」何もないものだということなんですよね。極端な言い方かもしれませんけれども、「物」だと思うのは、一つの工夫だと思うので、それでちょっとやってみていただければ、間違いではないと思います。
 
Q 9.坐禅が全く始めてということもありまして、坐禅の最中に足が痛いとか、何分経ったかなとか、そういうことばっかり考えてましたが、非常に静かな中で過ごせました。こういう時間というのは自分にとっては非日常で、日常生活にもどるとカリカリしたりするんじゃないかなと思っています。日常生活のなかに坐禅を活かしていく上でアドバイスいただきたい。
 
A 9.そうですね、よく僧堂の中の生活を非日常とおっしゃる方がいるんですよね。実際、われわれがやっているのは日常底なんですよね。これが本来の日常なんだという気持ちで私たちはやっているんです。何が日常かというと、朝起きてから夜寝るまで、そこに自分がいるという。だからこれはあくまでも自分の行だという、そういう意識でやっているということが、多分それが日常なんだと思うのですよね。今の社会だとなかなか自分というものをもって業務当たるということは難しいと思うのです。いろいろな対外的なことがあって、色んな仕組みを自分の考えを合わせたり、相手方に合わせたり。本当は自分というのは自分の中にいるのに、外に自分を作って、それを演じさせてしまっている。それがいわゆ る日常といわれるもので、本当は違うのではないかな。そっちの方が非日常ではないのかなという、ちょっとアンチテーゼなんですけれども。だから時々静かな時間をもって自分を回復させる時間が、現代だからこそ必要なのではないかな。その時だけちょっと本来の日常にもどっていただく。私どもは一応そういう考え方をもって毎日生活しているのです。
 
Q10 .半年前位から月例参禅に参加させていただいて、もっと禅を学びたいという気になっています。だからといって『正法眼蔵』を読んで理解する力はありません。もうちょっと簡単に学べる方法があったら教えていただきたいのですが。
 
A10 .簡単に学べるという、やはり直接お話を聞くのが一番良いのではないかなと思うんですね。われわれも一番注意しなければならないのは、聞くことをあまりしないんですよ。聞くことをしないから、自分が学んだことを一方的に伝えるだけで、そうすると本当に聞きたい人の心には届かない。だからまずわれわれにとっても聞く機会というのですかね、聞かせていただきたい、勉強させていただきたいのは、色んな意見というか、色んな方と交流して色んなお話を聞かせていただいて、その中で伝えていくものがあれば、それはもう心が通って分かりやすいものになると思うのですね。その作業を経る時間がないものだから、小難しいことを提示して、結局わからないということになってしまうのかな。だから、わ れわれにとっても反省点なんですけれども、もっとこう聞く力というか、聞くことを実践していきたいなという。だから「禅の一夜」や参禅会が一つそういうチャンスじゃないかなと思っています。
 
 
Q11 .今日初めて坐禅組ませていただきました。私も丸っきり俗世間の中で暮らしておりますので、坐禅を組むと雲の如くいろいろなことがボンボン湧いてきましてですね、こんなに自分て奥底に深くあったのかなという、すごく改めて感じました。とてもこれを捨て去って世の中生きていけるかな。やはりわが身が可愛くてですね、人のためにとか、まず自分の利益を優先する生き方になってしまいました。その中で特に我々の世界で人への信頼というのは非常に大事なんですね。それがないと自分も信用してもらえない。孤独に陥る。絶えず、信用と裏切りを天秤にかけてきました。信用とか信頼ということをどのように解釈すればいいですか? 
 
A11 .なかなか世の中、人を信用して生きて行くということは難しいですよね。疑って生きて行った方が、如才なく生きて行けるんじゃないかなという感じがするんですが。ま、仏教というのは究極の目標はやはり自分を救うことだと思うんですよ。この世に生まれた限りその目的は自分を救う、自分は救われてないから。なぜ救われていないかというと、さっき坐禅していると色んなものが浮かんできて、自分とはこういうものか、ああ、これは何とかしなければならない。と、そう思いますよね、坐ったときに。だから、それを救うことですよね。それを救うためにどうしたらいいのか考えると、色んなものを捨てていかなければならないかな。でも、他人のためとか何とかいうんですけれど、自分を救わない限り他 人を救えないと思うんです。だから、まずは自分を見極めて、脚下照顧という言葉ありますけど、自分はどういう所に立っていて、どういう者なのかというのを、それを参究してというか。その見つめるいい方法も坐禅だと思うんですよね。禅の中でそれまで気が付かなかった自分の悪いところといいましょうか、おぞましい姿がどんどんどんどん浮かび上がってきますので。さてそれをどうやって救っていこうかなという。ほとんどの人はそこに行かないですから。おぞましい姿をみようともしないので。おぞましい姿なんだ、本当に自分はこれは何とかしなければならないと、もう崖っぷちにいるんだということがわかって、だからこの生きている間に何とかしようと。そう思った時が、漸くスタートが切れるの じゃないかなと思います。そういう体験を今日、もしかしたらなさったのかなと思います。
 
Q12 .今日坐禅をしていてですね、唾液がどんどん溜っていくようなことがあるのですね。意識が過剰になったせいか余計溜っていくのですね。どうすればいいのでしょうか?
 
A12 .そうですね、唾液は結構、集中するがゆえに、何か変な処に気が周ってしまうのですよね。そうすると、口元であったり眼であったり、なんかこう余計にかゆくなったり・・・。それは、誰でもあることで、ま、唾液が出れば呑めばいいということで。そのくらい鷹揚な気持ちで考えていたらいいですね。出る場合はしょうがないので、音を立ててもいいですから、飲んでしまって、なんだかそうやっているうちに、気にならなくなってくると思いますので。
 
Q13 .本当の自分に帰るとおっしゃっていますが、本当の自分って何ですか?
 
A13 .心地を開明しですよね。仏教的な言い方をすると、それは仏性、仏の性質。われわれは仏の性質というものをあらかじめ具えているんだという。それが本当の自分ということだと思うんですよ。でも本当の自分といったら幅が広くて一言では言いかえないんでしょうけれども、気が付かなかった自分というくらいの柔らかい言い方に変えたいと思います。それまで気が付かなかった自分に出会えるということ。
 
Q14 .坐禅と瞑想の違いを教えていただけますか。
 
A14 .似たようなところはあると思うんですけど、瞑想というのは、何かこう意識を昏沈させて、脳と体全体をリラックスさせるエクササイズだと思うんですよね。坐禅というのは、その方向もあるんですけど、瞑想と違うのは覚醒があるんですね。自分の潜在能力を爆発的に開いていく。その両面持っているのが坐禅なんですね。よく脳内物質ということで言われるのはセロノニンという脳内物質の分泌が活発になるということですね。セロトニンというのは、リラックスと覚醒とを併せ持って作用する物なんだそうです。でも、実際、瞑想といったら瞑想になるかもしれませんね、坐禅も。理論的に物事を順を追って解明していくっていう訳じゃなくて、あるところからポンッと飛躍してしまうんですよね。覚醒して しまうんですよね。そこに断絶があるんで、仏教の中でも顕教と密教という二つがあって、顕教というのは、誰がやっても頭で理解できるんですけど、密教というのは、飛躍があって、その人にしか分からないというか、そういう大きな・・・。坐禅というのもそれに近いところがあって、作法は伝えられるんだけど、頭の中の飛躍っていいましょうか、その覚醒は本人にしかわかり得ない。純粋に瞑想だけではないんですね。
 
Q15 .数息観というのがでたのですけど、曹洞宗でも数息観というやり方があるんですか?
 
A15 .あの、曹洞宗は元々はやらないです。曹洞宗のなかでも公案を使ったり、数息観使ったりする人がいるので、工夫の一つとして。ただ、曹洞宗は数息観をやりますとは言えないですね。黙して坐るだけですから。数かぞえるというのは単純なので、なかなか、飽きてしまうかもしれないですよね。だから、一つの工夫として、いろいろと工夫して集中できるように、それ本人しかなかなかできないところもあるので。いろんな考えを考え突き詰めるというやり方は多分公案だと思うんですよね。考え突き詰めて、頭がギブアップして、それで飛躍していくっていうやり方もありますんで。だから、考えていること自体は、推奨はされないんですけど、その道筋としてはいろんなものがあってもいいかなと思うんです 。頭で考えるのがその人の生まれついた一つの癖っていう人がありますよね。何でも頭で考えてしまう。その人はその人なりに、考えて考えて、なんかそこから離れていく、そういのをうまくできる、たとえば公案ですよね、公案みたいなもの。それも一つの道筋だと思うんですよ。だから、これだというふうに決めないでいただければいいと思います。で、やっぱり時間もあるんですよね。夜の解放された時間に、お酒代わりにといいったら顰蹙を買うかもしれないですが、お酒代わりに坐禅してみる、その時間にですね。健康にもいいですし、精神的にも次の日の活力になっていくと思いますね。よく休めますし。
 
以上。
 

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